No.20 失明した患者さんに再び光を-新方式の人工網膜の実用化に向けて
No.20 失明した患者さんに再び光を-新方式の人工網膜の実用化に向けて
大学院ヘルスシステム統合科学研究科
松尾 俊彦 教授
大学院自然科学研究科
内田 哲也 准教授
眼球の奥にあり、光を感じる役割をもつ網膜。網膜の視細胞の障害によって視力が低下する「網膜色素変性症」に苦しむ方は国内で約3万人に上るといい、大学院ヘルスシステム統合科学研究科の松尾俊彦教授と大学院自然科学研究科の内田哲也准教授は、患者の方々を救うべく、これまでになかった新たな仕組みの「人工網膜」を開発。実用化に向けて準備を進めています。髪の毛ほどの厚さしかない人工網膜には、たくさんの方々の思いが詰まっていました。
―人工網膜とはどのようなものか教えてください。
松尾俊彦教授(以下松尾):網膜には、受け取った光を電位に変える「視細胞」という細胞があります。この電位が網膜中の他の細胞を通じて視神経に伝わり、脳に届けられることでものを見ることができます。しかし、遺伝子異常によってこの視細胞が死滅してしまう「網膜色素変性症」という疾患があり、最悪の場合失明に至ります。国内で約3万人の方が苦しんでいるといわれています。治療のためには視細胞の代わりとなるもの、すなわち光刺激に対応した電位を発生させるものを網膜に埋め込む必要があり、これが人工網膜です。
―新しく開発した人工網膜は、どのような仕組みなのでしょうか。
松尾:アメリカでは、網膜の表面に60個の電極を植え込むタイプの人工網膜がすでに販売されています。カメラで撮影した画像を60画素に落とし、画像情報に対応するように電極に電流を流して網膜を刺激するという仕組みなのですが、これによって得られる視力は「ぼんやりと見える」程度であり、解像度の低さが問題となっていました。
今回私たちが開発した人工網膜では、太陽光発電ですでに使われていた、光に反応して電位を生じさせる「光電変換色素」に着目しました。これは岡山の企業である(株)林原に提供していただいたもので、偶然にも人体に対する毒性が全くないものでした。これを薄い膜に定着させ、それを網膜に張り付けることで、光が当たった箇所に電位が生じるため、視細胞の代わりとなるわけですね。
内田哲也准教授(以下内田):色素を定着させるのに適した膜を開発するため、ポリエチレンなどの高分子を研究していた私の研究室に松尾先生が相談に来られて、2002年くらいに共同研究を始めました。2013年に現在実用化を目指しているものと同じものが完成しました。
―これまでの人工網膜と比較してのメリットを教えてください。
松尾:今回の人工網膜は、ポリエチレンの薄膜に光電変換色素を定着させたもので、丸めた人工網膜を注射器のような器具で網膜の裏側に押しこみ、広げて用います。これまでのタイプは60個の点でしか電位を起こせないため、どうしても得られる視野が限られるうえ、カメラを経由するためタイムラグが生じます。今回の手法であれば、化学反応を利用するため迅速であり、また薄く、切ったり曲げ伸ばしたりも自在のため、個々の目に合わせて調整が容易で、広い視野や高い解像度を得ることができます。
―実現には数々の苦労があったと聞きました。
内田:ポリエチレンで作った薄膜表面に色素を結合させる仕組み自体は比較的シンプルな考え方ですが、ポリエチレンは化学的に安定なため、工夫が必要でした。その対策を行ったサンプルを研究室レベルで作製すること自体は早い段階でできていたものの、とにかく大変だったのは、実用化に向けてのハードルです。
まず、人の体内に入れる器具としての安全性を担保することに苦労しました。ポリエチレンを使用し、人体に埋め込む医療機器としては人工関節があります。しかし、人工網膜とは使用環境も用いるポリエチレンの種類も全く異なるため、人工関節で得られている知見は人工網膜には適用できませんでした。そのため安全性や清潔性を保証する手段を自分たちで構築する必要があり、手探りからのスタートでした。まず、原料となるポリエチレンのメーカーに話を持ちかけても、体内埋植での使用ということでリスクを伴うことから提供を断られ続け、世界中を探してやっとの思いで協力してもらえるメーカーを見つけられました。今だから言えますが、正直あの時はもうこの研究は続けられないかと思いましたね(笑)。
松尾:さらに幸運だったのは、三乗工業(株)に協力をいただけたことですね。研究室で人工網膜を作れるようになっても、実用化するうえで量産体制に移ろうと考えると、研究室では場所もお金も足りず、安全性の担保もできないため、その点でも頭を抱えていました。
内田:三乗工業(株)は自動車部品メーカーであり、全く畑違いの分野のはずなのですが、偶然私が講師として参加した岡山県主催の岡山リサーチパーク研究・展示発表会に社長が来られていて、社会貢献としてぜひ協力させてほしいと名乗り出てくださいました。岡山大学キャンパスにある岡山大インキュベータ(経済産業省中小企業庁所管の中小企業基盤整備機構が運営する、ベンチャー企業を支援する組織およびその施設)の中にクリーンルーム製造設備を作るための部屋を借りてくださったうえ、厳密に品質を管理するためのマニュアル作りといったノウハウは、治験の開始に向けて国の認可を受けるうえで非常に役に立ちました。インキュベータの設備を使えば、現状で年間に1万個ほどの人工網膜を生産することが可能です。
松尾:また、岡山大学内にインキュベータがあったことも恵まれていました。中小企業基盤整備機構のインキュベータがある都道府県は多くありますが、中四国では唯一の施設となります。さらにいえば、光電変換色素が発生させる電位差を正確に測る方法についても、半導体が専門の岡山理科大学の財部健一教授に偶然教えてもらうことができました。そのために必要な装置も世界でも数が限られた貴重なもので、岡山大学で購入できたことも幸運です。本当に多くの方々のご協力をいただいたおかげで、ここまで来ることができました。
―いよいよヒトでの治験を行う段階が近づいているということですが、いつごろの開始を予定していますか。
松尾:これまでマウスやサルなどで実際に手術をして観察し、視力を取り戻す効果があることを確認できました。早ければ2020年の春頃にはヒトでの治験を始められるかもしれません。動物実験では、人工網膜の効果があったかどうかは脳波を測定するなどして確認していますが、具体的にどの程度の視力が得られるかはヒトでの治験でしか分からないため重要です。
内田:今回の人工網膜がどの程度の期間機能するのかの検証も課題です。動物実験では少なくとも5カ月は保つことが分かっていますが、それ以後、どのくらい耐久性があるかは今後明らかにしていく必要があります。したがって実用化することを考えると、耐久性の評価方法を確立することも大切です。その方法を確立するとともに、より耐用期間を延ばすための改良に向けた研究も平行して進めています。
松尾:誰もが快適に使用できるような、持続可能な製品にしていきたいですね。
略歴
松尾 俊彦(まつお・としひこ)
1961年生まれ。岡山大学医学部医学科卒業、同大学院医学研究科(外科系眼科学専攻)修了。医学博士。専門は眼科学。日本学術振興会特別研究員(PD)、カナダ国ブリティッシュ・コロンビア大学研究員、岡山大学大学院医歯学総合研究科助教授(眼科学分野)、同大学院ヘルスシステム統合科学研究科准教授(生体機能再生再建医学分野)などを経て2019年より現職。
内田 哲也(うちだ・てつや)
1969年生まれ。岡山大学工学部卒業、同大学院工学研究科修了。博士(工学)。専門は高分子化学、高分子複合体など。企業勤務、米ジョージア工科大学研究員、岡山大学大学院自然科学研究科講師などを経て2012年より現職。
(19.11.15)